小さいころ、多分5歳か6歳くらいだったと思う。
曾祖母が亡くなった。
葬式に参列した。黒い喪服に身を包んだ大人たちと、無機質で重く冷たい火葬炉の扉。肉体が役割を終えたことを告げんばかりの燃えかすの骨片が、骨壺に入れられてゆく。その光景がたまらなく恐ろしかった。
生まれた時から見ていた、あらゆるものの姿形は、周りの役割は、未来永劫変わらないと思っていた私の世界が壊れていくのを感じた。私の傍で同じく遺骨を見つめる母は、ずっと母で、若くて、温かいのだと思っていた。そうしているうちにも、無慈悲に、不可逆に、進み続ける時間がひたすらに恐ろしくて。その事実がどうしようもなく、怖くて辛かった。だから、寝る前に母に問いた。おばあさんにならないよね?母には、ならない。と、はぐらかされ、宥められ、布団をかけられた。
曾祖母はどんな人生を送ったのだろうか。祖父母の家にあった遺影の中の姿は、もう私の記憶の中にはない。手繰り寄せる手段がほとんど残されていない。
町田のどこかの墓地に納められた曾祖母の灰よ、聞いてくれ。
子供を授かるとしたならば。今度はその小さな世界の喪失に立ち会うのは確実に私だ。喪に服し、失った人を悼む中で、きっとあの時の火葬場が頭によぎるのだろう。そしたらかつての母と同じように、いつかはやがて知るのだと先送りにして、そっと目を塞いでやろうとすることが正しいのか。何十年もかけて、人の記憶から遠ざかりゆく人間になれたとしても、あなたのように、誰かに喪失を与える役目を担わなければならないのか。それが人生だというのなら、傍に佇む苦痛から私は目を逸せない。それから、ある日に忽然と、塵一つ残さず、今まで身内が繋いできたものなんてなりふり構わず、人の記憶と共に存在もろとも消し去りたいと思えるくらいと思うほどには時々耐えきれなくなる。
けれど、それでも、あなたが灰へとなりゆく間、案外賑やかな大人たちに囲まれて食事をしていたことは覚えているし、そのとき初めて口にしたバヤリースのオレンジジュースがとても美味しかったことも覚えてる。