自分の体が遺伝子の設計図を元に作られているという事実を感じる時が多々ある。
親と離れて暮らしても血のつながりを感じざるを得ないことがあった。
父は後天的な疾患を持っている。不摂生が引き起こすものだし、生活習慣の改善で緩和する病気だ。
何故自己管理ができないのだろう。食事を終えた直後、歯磨きもせずソファーで仰向けでいびきをかくその姿を見て、こうはなるまい。と思っていた。
だが、自分が一人暮らしをし始めてから気づいた。食べ物によっては食後凄まじく眠くなる。そもそも血糖値が上がりやすい体質だったことに気がついた。思い返すと食の嗜好も彼と近しいものがある。気づけば、血糖値が上がりやすい食べ物を欲して口にしているのだ。食事を終えて、気づいたら朝。ベッドで横になっていた時があった。あの彼の姿と自分が重なった。(彼において、食生活含め生活習慣があまり良くなかったことに違いはなかったと思う。しかし、一つの事柄が起きるには複数の理由があるように一概には言い切れない原因があると思っている。体質や精神的なストレスなど。決して不摂生で病気をして苦しんでいる人々に対しての揶揄ではないことにご留意を)
では、体質が変えようのないものであるなら、意思や感情すらもその設計図に基づいているのではと思えてきた。
体験がないのに恐ろしくて拒絶するものも、無性に求めてたまらないものも、もしかしたらこれまでの先祖たちの経験や記憶に基づいているのかもしれない。脳内の記憶とは別に、体内そのものに、データが蓄積されているということが本当であれば、この身体の設計図がもし無意識の中に根付いているとすれば…意識しても抗えないことがあってしょうがないのではないだろうか。
もし、美しいと思うことも、心地よいと思うことも、元々ある設計図に基づいたプログラムにしか過ぎないとするのであれば、自分とはなんだろう。どこまでが認識可能で、コントローラブルで、どこからが設計図に基づいた感覚で、どこからが私だけの意思なんだろう。アイデンティティーの崩壊の気配を感じるので、この辺りにしようと思う。体は資本。みんなもどうか大事に。